提橋和男の新管理人のつぶやき

(2008/12/18)


提橋和男の新☆管理人のつぶやき 1125

12月8日は何の日?


1941(昭和16)年12月8日早朝、ラジオから臨時ニュースが流れた。
「帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋上において米英両国と戦闘状態に入れり」。 12月8日は太平洋戦争の開戦の日である。
しかし、ある本によれば、この日は「世界史の大きな変換のきっかけとなった記念日」とあった。ある意味で日本人は物事を近視眼的に見がちなのかもしれない。
たとえば1944(昭和19)年3月15日に開始されたインパール作戦はある本には「史上まれにみる愚戦、敵味方10万余の命奪う」とある。日本軍将兵6万5000余名、英印軍4万余名の将兵の命が失われた。 負けた日本軍は弾薬食料の補給ゼロという無謀な作戦であったが、弾薬食料が欠乏して撤退する日本軍を追撃した英印軍も4万余名の犠牲を出し進攻する余力を失い大規模な追撃戦は見送られたというからだらしがないというしか言いようがない。
ところでこの作戦の本質は愚戦どころか、チャンドラ・ボースの自由インド政府軍のインド開放作戦の支援という見方が正しいと私は思う。
終戦後、捕らえられた自由インド政府軍兵士は「国家反逆罪」で裁かれた。裁判の証人として日本軍人も召喚された。
弁護士との打ち合わせに彼らは罪を恐れて「我々は東条英機の命令で動いただけ」と言うと弁護士は怒った。「そんな証言をされたら彼らは死刑になってしまう。いいですか、日本軍はインド開放のために進撃した自由インド政府軍支援のために戦ったのです。そう証言してください」。 デリーで開かれた法廷で自由インド政府軍の兵士たちは「祖国インドを英国の支配から開放するために戦った」と証言した。「国家とは何か」。彼らにとって国家とはインドであり、彼らが(日本軍支援の下に)戦ったのは支配者の英国であってインドではない。
英国が裁こうとする「国家反逆罪」の国家とは英国のことであり我々の国家ではない。 兵士たちの主張はインド民衆の心に火を付け、その炎はインド全土に広がり、ついに英国はインドを失うことになってしまったのである。
今日、日本人は忘れてしまっても、インドの人々は忘れていない。インドが親日の所以である。

日本軍の攻撃を受ける真珠湾軍港
日本軍の攻撃を受ける真珠湾軍港


12月8日は何の日? それは「500年に及ぶ白人の略奪・侵略支配の終焉の始まりとなった記念日」である。 有史以来、有色人種が白人の軍事拠点たる根拠地を、波涛はるかに乗り越えて攻撃し壊滅的打撃を与えたという事例はない。
日本海軍の真珠湾攻撃は世界中が歓喜した日であるという。攻撃に成功した日本はもちろん、攻撃を受けたアメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相も歓喜したのです。
1941年8月、プリンス・オブ・ウェールズ号艦上でイギリスのウインストン・チャーチル首相とアメリカのルーズベルト大統領は大西洋会談を行い、日米開戦を密約、いかに日本に先制攻撃を仕掛けさせるか協議を済ませていたのです。
イギリスはドイツの攻撃の前に風前のともし火、一刻も早いアメリカの参戦を望んでいましたが、アメリカ国内の世論は孤立主義が支配的で、ルーズベルト大統領も第二次世界大戦の戦場にアメリカの青年を送らないとの公約を掲げて当選していました。
参戦するには、戦争に反対する世論を納得させる理由が必要だったのです。例えば先制攻撃を仕掛けられるといった重大な理由が必要でした。ルーズベルトはナチス・ドイツを挑発しましたがヒトラーはその手にのりませんでした。かくなるうえは日本にその役目をやらせようと罠が仕掛けられたのです。
真珠湾攻撃は同盟国ドイツも「ようやく日本が立ち上がった」と喜びを持って迎えられたとその書にはありました。しかしこの点について私は異論があります。
ヒトラーはアメリカの国力の恐ろしさを知っていましたので第二次世界大戦にアメリカを参戦させてはならないと考えていました。ですからアメリカの挑発にも乗ることはありませんでした。思考が単純な日本がアメリカの罠にはまったことに激怒したという説があります。ですから、世界中が歓喜したなかでナチス・ドイツだけは怒りをもってこのニュースを受け止めたというのが正解だと私は思います。

さて、戦争当事者以外の、白人の略奪・侵略の支配下にあった世界中の有色人種の人々が歓喜しました。白人の500年に及ぶ支配の下、有色人種は白人に劣り彼らを絶対に超えられないというトラウマを植えつけられてきました。
真珠湾攻撃はそれまでの軍事常識を覆す斬新な方法によって行われました。それまでは海の支配者は戦艦であり、航空機によって戦艦を沈めることは出来ないというのが世界の常識でした。
ところが真珠湾を攻撃したのは空母6隻を基幹とする、史上初の空母機動部隊によるものでした。それも白人が考えた戦法ではなく有色人種が行ったのです。
白人の略奪・侵略の支配下にあった世界中の有色人種の人々が勇気と希望を得たのです。

hitocup一航艦『赤城』より単冠湾に集結した機動部隊を撮影した写真(昭和16年11月23日朝と思われます)
▲一航艦『赤城』より単冠湾に集結した
機動部隊を撮影した写真
(昭和16年11月23日朝と思われます)

空母艦上で出撃を待つ真珠湾奇襲隊.
▲空母艦上で出撃を待つ真珠湾奇襲隊.

空母赤城より発艦する零式艦上戰闘機
▲空母赤城より発艦する零式艦上戰闘機


1941(昭和16)年12月2日、シンガポールには「Z部隊」と名付けられたイギリス艦隊が入港していました。日本の南方進出を防ぐためであり、イギリス東洋艦隊司令長官のトーマス・フィリップ中将は旧式戦艦数隻を増派すれば事足りると考えていましたが、チャーチル首相が「そんな低速艦ではだめだ」と拒否し、巡洋戦艦「レパルス」と最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウエールズ」が派遣されました。
両艦が入港すると、市民から熱烈な歓迎を受けました。これほどの戦艦が配属されたからには、マレー半島もシンガポールも安泰だという雰囲気がみなぎったといいます。
事実「プリンス・オブ・ウエールズ」に太刀打ちできる日本の戦艦は「長門」か「陸奥」クラスしかなく、この海域を担当する南遣艦隊には両戦艦は配属されていませんでした。
しかし、開戦2日目の12月10日、巡洋戦艦「レパルス」と最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウエールズ」は日本海軍の陸上攻撃機部隊によって撃沈されてしまいました。
真珠湾攻撃は停泊中の戦艦を航空機によって攻撃したものでいわば「据え膳」でしたが、戦闘行動中の戦艦が航空機によって撃沈されるということも史上初のことであり、軍事常識を覆すものでした。
日本では「マレー沖海戦」と呼ばれるこの海戦は、イギリスでは「クワンタン沖の悲報」と名付け、大英帝国の海戦史上の汚点として残されているそうです。
また、チャーチル首相は、この悲報に接して「しばし唖然の状態であった」といい、そのショックを隠さなかったそうです さらに世界を驚かせたのは「プリンス・オブ・ウエールズ」と「レパルス」が撃沈された位置が、日本海軍の航空基地から遠く四百五十浬も離れていたことで、当時の欧米の空軍の常識では考えられないことであった。

炎上する太平洋艦隊戦艦群
▲炎上する太平洋艦隊戦艦群

真珠湾上空を行く空母翔鶴の九七艦攻
▲真珠湾上空を行く空母翔鶴の九七艦攻

真珠湾攻撃へ向かう翔鶴艦載機
▲真珠湾攻撃へ向かう翔鶴艦載機


1942(昭和17)年2月15日、イギリスのアジア侵略の拠点であるシンガポールが陥落したとき、当時、ロンドンに亡命していたフランスのドゴール将軍(後の大統領)は、その報に接し、「シンガポールの陥落は、白人の植民地主義の長い歴史の終焉を意味する」と日記に書きました。
このドゴールの予言は当たり、終戦後、アジアでは続々と独立国が誕生しました。フィリピン、インド、パキスタン、ビルマ(現・ミャンマー)、セイロン(現スリランカ)、マレーシア、ベトナム、ラオス、インドネシア・・・。アジアの民族自決運動はやがてアフリカにも飛び火し、アフリカ大陸でも続々と独立国が誕生しました。
これによって500年の間続いてきた白人の有色人種植民地支配はあらかた幕を閉じたのです。 1945年に国連が発足した当時、加盟国はたった51ケ国でした。
それが現在では191ケ国まで膨れ上がっています。そのうちほとんどはアジア、アフリカ地域の国々です。 1957年5月、来日したインドネシアのブン・トモ情報・宣伝相は、次のように日本政府要人に謝意を述べました。 「我々アジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した。インドネシアの場合は350年間も。
それなのに日本軍がアメリカ、イギリス、オランダ、フランスを我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の弱体と醜態を見て、アジア人全部が自信を持ち、独立は近いと思った。一度持った自信は決して崩壊しない。日本が敗北したとき、これからの独立運動は自力で遂行しなければならないと思った。
しかし独力でやれば50年はかかると思っていたが、独立は意外にも早く勝ち取ることができた。そもそも大東亜戦争は我々の戦争であり、我々がやらねばならなかった。そして実は我々の力でやりたかった。それなのに日本だけに担当させ、少ししかお手伝いできず、誠に申し訳なかった・・・」

マレー沖海戦索敵と攻撃に活躍した九六陸上攻撃機
▲マレー沖海戦索敵と攻撃に活躍した九六式陸上攻撃機

魚雷・爆弾攻撃を受けて断末魔のプリンス・オブ・ウェールズとレパルス.
▲魚雷・爆弾攻撃を受けて断末魔の
プリンス・オブ・ウェールズとレパルス.

鹿屋海軍航空隊 第2中隊.一式陸攻 (マレー沖海戦時1941年12月)
▲鹿屋海軍航空隊 第2中隊.一式陸攻
(マレー沖海戦時1941年12月)

96式陸上攻撃機
▲九六式陸上攻撃機



その他アジア各国の声

「日本のおかげでアジア諸国は全て独立した。日本というお母さんは、難産して母体を損ねたが、生まれた子供はすくすくと育っている。
今日、東南アジア諸国民が英米と対等に話ができるのは一体誰のおかげか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためだ。われわれは12月8日を忘れてはならない。」 ククリット・プラモード(タイ首相)

「インドの独立は日本のおかげで30年早まった。インド4億の国民は深くこれを銘記している。」 グラバイ・デザイ博士(インド弁護士会長)

「どうして日本は謝るのでしょうか。あの戦争でマレー人と同じ小さな体の日本人が、大きな体のイギリス人を追い払ったのではないですか。その結果、マレーシアは独立できました。大東亜戦争なくして、マレーシアもシンガポールも、その他の東南アジア諸国の独立も考えられないのです。・・日本がアジアのために払った大きな犠牲を、この尊い戦争の遺産を否定することはバックミラーばかり見ているようなものです。」 ガザリー・シェファー(マレーシア外相)

「われわれの多くの者が長い間さまよい、救いを求めて与えられなかった荒野から、われわれを救い出してくれたのは、東洋の指導国家日本であった。・・歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人世界から離脱させることに貢献した国はない。しかしまた、その解放を助けたり、あるいは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸民族そのものから、日本ほど誤解を受けている国はない。」 バウ・モウ(ビルマ首相)


話は遡りますが、1914年から始まった第一次世界大戦には、日本も日英同盟により参戦しました、大戦後戦勝国の一国としてパリ講和条約に出席した日本が要求したのが、人種差別撤退です。パリ講和会議では国際連盟の下準備も進められ、国際連盟の規約を作成するにあたって,第1条に人種差別撤廃の規定を盛り込むよう提案したのです。
しかし、圧倒的な反対にあい、否決されました。それでも日本は諦めず、西園寺公望を団長とする日本代表団は、「大戦に勝ったのはインドがイギリスに協力し、ベトナムがフランスに協力したからではないか。日本も戦ったではないか。だから人種差別は撤廃して、人種は平等という原則を打ちたてようではないか。
国際連盟規約の前文でもいいから、人種は平等であるという一行を加えてほしい」と何度も訴え、小委員会に付託されるまで粘りました。小委員会では11対5(反対はイギリス、アメリカ、ポーランド、ルーマニア、ブラジル)で賛成多数で勝ちを得ましたが、議長であったアメリカのウィルソン大統領は「このような重要問題の決定は「全会一致、少なくとも反対者がいないこと」が必要だとまやかしの論理を振りかざし、否決しました。

人種、民族は平等という文字を国際連盟規約に盛り込むという日本の提案が葬り去られてから29年後の1948年・国際連合総会で「世界人権宣言」が採択されました。 人間の自由と平等を高らかに謳った・・・。

日露戦争で種は撒かれていた

生まれて間もない有色人種の国・日本が世界最大の陸軍・海軍大国であった白人の帝国・帝政ロシアに勝った。
この予想外の勝利は帝政ロシアの侵略の脅威にさらされていた周辺諸国、西欧列強のなすがままに搾取されていたアジアの国々に限りない希望をもたらした。
二百三高地を陥落させた乃木希典大将や日本海海戦を勝利に導いた東郷平八郎元帥は英雄として讃えられ、現在でも当時作られた通称「東郷ビール」(ラベルが東郷元帥)がフィンランドでは愛飲されています。
またトルコには「ノギ・ソタカ(通り)」の名が残っています。 とりわけ狂喜乱舞したのは、欧米列強に虐げられ続けていたアジアの国々でした。
インドのジャワーハル・ネール首相が述懐しています。 「小さな日本が、大きなロシアに打ち勝ったことは、インドに深い印象を刻みつけた。
日本が最も強大なヨーロッパの一国に対して勝つことができたのならば、どうしてそれがインドにできないことがあろうか。長い間インド人は、白色人種であるイギリス人に対する劣等感にとらわれていた。イギリス人の長い間の支配や、1857年の反乱の野蛮な弾圧が、それを養った。兵器法によって、インド人は武装を禁じられていた。
我々に与えられた教育までもが、我々に劣等感を与えた。そしてヨーロッパ人は、アジア全体が一つの取り残された大陸であり、将来長くヨーロッパの支配を受けるべきものだと、思い込んでいた。
それゆえ、日本の勝利は、アジアにとって、偉大な救いであった。そしてインドでは、我々が長くとらわれていた劣等感を、取り除いてくれたのである」
中国革命の祖であり、毛沢東、周恩来、蒋介石など革命の指導者たちの指導者だった孫文も語っています。 「アジア人とヨーロッパ人を比べるのに、以前は世界で優秀なのは白人だけだと考え、何事も白人の独占となっていた。
我々アジア人は、白人におよびがたきものと諦め、中国人だけでなく、アジアのすべての民族が絶望していた。そこへ日本が忽然と興、世界の一等国になったのを見て、アジアの民族に、無限の希望が輝き始めた。白人のやることはアジア人にもやれた。
皮膚の色の違いは、知力や才能の優劣とは関係ない。そういうことがわかったのだ」
日露戦争の日本の勝利の影響はアジアだけでなくアフリカにも及び、1977年、日本アラブ協会理事だった田中正明氏はエジプトのアンワル・サダト大統領を訪問した折、大統領からこう言われて驚いたそうです。 「私は近く日本を訪問するが、その時は真っ先に明治神宮を訪問するつもりだ。
今日エジプトが独立し、このように繁栄をきたしたのも、その根源をたどれば明治天皇様の率いる日本軍が、白人帝国主義のチャンピオンたるロシア帝国を破ったことに起因する。
エジプトで今なお愛唱されている「日本の娘さん」という歌は、日露戦争に従軍看護婦として出征する日本の女性を讃えた詩なのです」

日露戦争は攻めてくる白色人種のロシアを有色人種の日本が迎え撃った戦いでした。有色人種が白色人種を打ち負かしたことは史上初の出来事でした。
太平洋戦争の開戦劈頭におけるハワイ・真珠湾攻撃は、有色人種が白色人種の軍事拠点に遠征し壊滅的打撃を与えた、これまた史上初の大事件だったのです。
そのインパクトは全世界におよび、特に白色人種の支配下にあった有色人種を覚醒し、戦後の独立運動を喚起したのです。 その意味において、1941(昭和16)年12月8日こそ「500年に及ぶ白人の略奪・侵略支配の終焉の始まりとなった記念日」だといえるのです。
世界史の大きな流れをみれば、そのことは明白であると思います。

=参考: 新・歴史の真実(前野 徹)講談社α文庫・ほか=

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