提橋和男の新管理人のつぶやき

(2008/08/18)


提橋和男の新☆管理人のつぶやき 1104

バカボン、天国へ…ギャグ漫画の神様・赤塚不二夫さん死去、72歳
8月3日8時1分配信 スポーツ報知
写真=焼酎のコップを片手に、紫綬褒章受章の喜びを語る漫画家の赤塚不二夫さん=98年10月
写真=焼酎のコップを片手に、紫綬褒章受章の喜びを語る漫画家の赤塚不二夫さん=98年10月

「おそ松くん」「天才バカボン」などで知られる人気漫画家・赤塚不二夫(あかつか・ふじお=本名・藤雄)さんが2日午後4時55分、肺炎のため都内の病院で死去した。72歳だった。赤塚さんは98年、ウイスキーグラスを片手にがんを公表。破天荒な闘病生活が話題になった。02年に脳内出血で倒れてからは周囲への反応がほとんどない状態で、妻・真知子さんの介護で回復を見せたものの、06年には真知子さんがくも膜下出血のため急死した。葬儀・告別式の日取りなどは未定。喪主は長女りえ子さん。

10年以上も闘病を続けた赤塚さんは2日昼過ぎ、容体が急変。病院から連絡を受け、長女のりえ子さん、赤塚さんの妹が駆け付けた。

今年2月末から患った肺炎が悪化し、血圧が低下。緊迫した状況が続き、午後4時55分、肉親だけに囲まれ静かに息を引き取った。赤塚さんの事務所は「とても穏やかな表情でした」と話した。

りえ子さんは赤塚さんの前妻の娘で、その前妻は先月30日に68歳で亡くなったばかりだった。りえ子さんは母親の葬儀をまだ行っておらず、この日も母親の実家から病院に急行。両親の相次ぐ死に、りえ子さんは憔悴(しょうすい)し切っている。

容体急変の連絡を受け、漫画家仲間の藤子不二雄(A)さん(74)、北見けんいちさん(67)が病室に駆け付けたが、間に合わなかった。

赤塚さんは02年4月、定期検査のための入院中に脳内出血を起こし、緊急手術を受けた。以降、周囲への反応がほとんどない状態だった。真知子さんの懸命な看病で、呼びかけると、顔を向けようとするまで回復した。しかし、真知子さんは06年7月にくも膜下出血のため、56歳で亡くなった。

晩年は病気との闘いだったが、破天荒な治療を貫いた。97年12月に吐血して入院。検査の結果、食道に直径2センチのがんが発見されたが「手術すると仕事を休まなければいけなくなるので」と手術入院を拒否したこともあった。

食道がんが見つかって以降も好きな酒を手放さなかった。がん闘病について取材が殺到すると、「うちはね、今ちょっとした『がん景気』なんだ」と周囲を笑わせた。

アルコール依存症治療のため毎月のように入院し酒を抜く「ウオッシュアウト」を繰り返した。退院しては飲み、「ノーメル(飲める)賞だな」とギャグを飛ばした。

02年の闘病に入る直前はほとんど食事を受け付けず、酒ばかりの生活。栄養失調気味で車いす生活を余儀なくされた。

「人間、死ぬときは死ぬんだよ。それまでは一生懸命仕事をしようと思ってね」00年に「目の見えない人にも楽しむ権利がある」と、点字の漫画絵本「よーいどん!」を発表。第2弾の「ニャロメをさがせ!」も02年に発売した。弥次さん喜多さんがアイヌ民族を訪ねるという珍道中の構想も温めていた。

◆赤塚 不二夫(あかつか・ふじお)本名・赤塚藤雄。1935年9月14日、中国・熱河省(現河北省)承徳生まれ。終戦後、引き揚げ奈良、新潟で青春時代を送る。中学時代に手塚治虫さんの「ロスト・ワールド」に感動し、上京。豊島区のアパート「トキワ荘」で石ノ森章太郎さん、藤子不二雄(A)さんらと暮らし腕を磨いた。62年から「少年サンデー」に連載した「おそ松くん」が爆発的な人気を呼び、「ひみつのアッコちゃん」「天才バカボン」「もーれつア太郎」などヒットを飛ばした。65年小学館漫画賞、72年文春漫画賞を受賞。98年に紫綬褒章を受章。2003年には東京・青梅市に「青梅赤塚不二夫会館」がオープンした。

最終更新:8月3日8時1分

タモリ涙の弔辞「私も作品のひとつ」…赤塚不二夫さん告別式

2008年8月8日(金)9時40分配信 日刊スポーツ

恩人・赤塚さんへの弔辞で初めてお礼を述べたタモリ。
恩人・赤塚さんへの弔辞で初めてお礼を述べたタモリ。

2日に肺炎のため72歳で亡くなった漫画家赤塚不二夫(あかつか・ふじお)さん(本名・赤塚藤雄)の葬儀・告別式が7日、東京都中野区の宝仙寺で営まれた。赤塚さんとの出会いで芸能界に入るきっかけをつかんだタモリ(62)は弔辞で「私もあなたの作品の1つです」と呼び掛けた。漫画家、出版関係者ら650人、ファン550人が参列した。法名は「不二院釋漫雄(ふにいんしゃくまんゆう)」。
「これでいいのだ〜」と「天才バカボン」のテーマ曲が流れる中、出棺した。
赤塚さんそのものの言葉だ。タモリは弔辞で「あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し受け入れること。その考えをあなたは見事に一言で言い表しました。まさに『これでいいのだ』です」と読んだ。すべてを受け入れた結果、人にだまされ金銭的打撃を受けたこともあったが、相手を恨む言葉は一切聞いたことはなかったという。
タモリは、新宿・歌舞伎町でライブをしていた時に赤塚さんと出会い、芸能界に入った。毎夜すし店で、お笑いや映画、絵画談議をし影響を受け続けてきた。「10代の終わりから青春は赤塚不二夫一色でした。私もあなたの数多くの作品の1つです」と言った。
肉親以上の関係だったため「お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかった」と、これまで感謝の気持ちを伝えたことはなかった。弔辞でお礼を言うことになったタモリは、それまで淡々としていたが、声を詰まらせ「お世話になりました。ありがとうございました」。
葬儀委員長の藤子不二雄(A)氏は「もう悲しむことはありません。好きなように突っ走ってあっちに行ったんです」と見送った。「漫画はもういいと言っているはず」と言う人もいれば「天国でも漫画を描く」と言う人もいた。共通しているのは、優しくてシャイで、にぎやかなことが大好きな赤塚さんだ。
喪主を務めた長女赤塚りえ子さんは「たくさんの方々に愛され見送られ、父は幸せだと思います。一生懸命頑張って父の作品を守ってまいります」と、泣きながら気丈にあいさつした。
ほかに北見けんいち氏、ちばてつや氏、楳図かずお氏ら漫画家、研ナオコ、小松政夫、松尾貴史、林家ペー、山本晋也監督らが参列した。
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タモリの手には白紙…あふれる感謝そのままに
2008年08月08日06時01分 / 提供:スポニチ

故赤塚不二夫さんの葬儀で弔辞を述べるタモリさん。「父のようでも兄のようでもあり、時折見せる顔は弟のようでもありました」と弔辞を述べ最後は言葉を詰まらせた(7月午前、東京都中野区の宝仙寺=代表撮影)(時寺通信社)
故赤塚不二夫さんの葬儀で弔辞を述べるタモリさん。「父のようでも兄のようでもあり、時折見せる顔は弟のようでもありました」と弔辞を述べ最後は言葉を詰まらせた(7月午前、東京都中野区の宝仙寺=代表撮影)(時寺通信社)

タモリは、手にしていた紙を何度も見ながら弔辞を読んでいたが、紙は白紙で、すべてアドリブだった可能性がある。7日夜放送のテレビ朝日「報道ステーション」では、弔辞の様子をVTRで伝え、映像から「手にした紙には何も書かれていないようにも見える」と指摘。インターネット上の掲示板でも話題となり「白紙なんだよね。すごいよタモさん」「あの長い弔辞を白紙で読んでるとかすげぇな」「読み上げるふり。ささげるギャグなのかな」などといった書き込みが相次いだ。

◆タモリ弔辞全文◆

弔辞

8月2日にあなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが回復に向かっていたのに、本当に残念です。

われわれの世代は赤塚先生の作品に影響された第1世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクター、私たち世代に強烈に受け入れられました。10代の終わりからわれわれの青春は赤塚不二夫一色でした。

何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていた時に、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは今でもはっきり覚えています。赤塚不二夫が来た。あれが赤塚不二夫だ。私を見ている。この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。終わって私のところにやってきたあなたは、「君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住むところがないから、私のマンションにいろ」と、こう言いました。自分の人生にも他人の人生にも影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。

それから長い付き合いが始まりました。しばらくは毎日新宿の「ひとみ寿司」というところで夕方に集まっては深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタを作りながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。他のこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、いまだに私にとって金言として心の中に残っています。そして仕事に生かしております。

赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。麻雀をする時も、相手の振り込みであがると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしかあがりませんでした。あなたが麻雀で勝ったところを見たことがありません。その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかし、あなたから後悔の言葉や相手を恨む言葉を聞いたことはありません。

あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折見せるあの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀の時に、大きく笑いながらも目からはぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺の時、たこちゃんの額をぴしゃりと叩いては、「この野郎、逝きやがった」と、また高笑いしながら大きな涙を流していました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。

あなたの考えはすべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また、時間は前後関係を断ち放たれて、その時、その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち、「これでいいのだ」と。

今、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が、思い浮かんでいます。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外への、あの珍道中。どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが京都五山の送り火です。あの時のあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。

あなたは今この会場のどこか片隅で、ちょっと高い所から、あぐらをかいて、ひじを付き、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に「おまえもお笑いやってるなら弔辞で笑わしてみろ」と言ってるに違いありません。あなたにとって死も1つのギャグなのかもしれません。

私は人生で初めて読む弔辞が、あなたへのものとは夢想だにしませんでした。私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今、お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の1つです。合掌。

平成20年8月7日、森田一義