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提橋和男の新☆管理人のつぶやき 971
時間の流れる速さは一定か?
元・航空自衛隊の戦闘機搭乗員A氏(素直にパイロットと書かないところが小憎らしい)と知り合いになった。私はかねてから疑問思っていることを彼に質問した。
「白色電光の戦闘穴吹」軍曹の「背面突進」が人間業としてできるのか?、ということについて…。
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| 50戦隊「白色電光」マークの隼。 |
「背面突進」
大東亜戦争も中盤(昭和18年)になると、連合国の反撃が激しくなり、快進撃を続けていた日本軍は苦戦をしいられるようになった。
ビルマの空を守る飛行50戦隊、64戦隊(有名な「加藤隼戦闘機隊」)の隼戦闘機も、大型爆撃機B−24や高速のロッキードP38戦闘機、モスキート偵察機など、隼戦闘機の性能では太刀打ちが難しくなっていた。とくにB24は不落の爆撃機で、隼戦闘機隊の搭乗員の志気も低下していた。
そうした中、快報がとどいた。50戦隊穴吹軍曹が単機よく護衛のP−38戦闘機2機、B−24爆撃機3機撃墜、最後の一機は尾部をプロペラでひっぱたいて撃墜したのである。昭和18年10月8日のことであった。
穴吹軍曹は13ミリ機関砲十門を搭載するB−24の唯一の死角は直上だと考えた。
B−24の直上1000メートルから背面急降下に入り一直線に操縦席に突進する。B−24の風防ガラスは厚さ10センチ以上はあるので近接射撃でなければならない。
射撃開始は直上50メートル。一連射で5メートルで離脱。体当たり寸前で前方へ抜ける。正副操縦者を打ち抜かれたB−24はキリモミ状態で落ちて行く…。
隼戦闘機の最大速度は初期の1型で490km/h、2型で515km/h。高度8000mでは当然これより速度は落ちるので、仮に400km/hから急降下に入ったとして(その後の加速は無視して)1000mを降下するのに要する時間は秒速130mとして7〜8秒。射撃開始から待避まで45m=0.34秒。待避開始5m=0.038秒
こんな短時間に射撃し、衝突せずに待避行動がとれるのだろうか?
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| 64戦隊(加藤隼戦闘隊)の隼1型 |
A氏は「その瞬間、搭乗員にとって1秒が経過する時間がすごく長くなるから、十分可能」という答えが返ってきた。
ジェット戦闘機を操縦していて危険な目には何度もあっているが、その時は1秒が経過する時間がものすごく長くなる。穴吹軍曹もその瞬間は1秒がとても長い時間に感じていただろう、とA氏はいうのである。
時間の長さが変わる? そういえば坂井三郎氏などの空戦記を読むと、激しい空中戦で追いつ追われつ何機かを撃墜し、ものすごく時間が経過したような気がして、時計をみると、わずか数分しか経っていなかったということが書いてある。
確かに空中戦記は敵機を追い詰めて撃墜するまでの様が細かく描写されていることがあるが、実はそれはほんの数秒の世界のことで、日常であればあっというまの時間だからそこまで観察できないことが、異常の状態で時間の流れが違うために起こることかもしれない。
私自身の体験を思い出した。交通事故の体験である。小雨降る夜、片側一車線道路を走っていると、突然目の前に車が浮かび上がった。それは私の前を横切ろうとしている車だったのだが、目の前に停まってみえた。「ぶつかる」と思ってブレーキを思い切り踏んだが間に合いそうもない。瞬間、私は対向車線に逃げようと思った。しかし、目の前の車が邪魔をして対向車の有無の状況がわからない。街路灯と降りしきる小雨が目に入った。
「もし、対向車線に大型トラックでもいたら、そっちの方がやばい。このまま真っ直ぐ行こう」と判断し、あとは「止まれ、止まれ」と心の中で叫んだ。結果、相手車の横腹ど真ん中に追突した。これだけの判断をするのに数秒かかったように感じた。
道幅は上下二車線合わせて5m。相手の車が、時速30kmで交差点を抜けようとしていたとして、所要時間は0.6秒。まだ抜け切っていないのだから半分の0.3秒。
私が時速50kmとして0.3秒で移動する距離は4m〜5m。
つまり、ほんの一瞬の間に起こった事故なのに、この間、先に書いた行動をし、また、行動しようと判断したのだから、私にとっては数秒間に感じる時間であった。
これらのことから、時間の経過は、つねに一定ではない。時間の経過は人それぞれ、また状況によって変わるということがわかる。ほんのコンマ何秒の世界でも、通常では考えられないことが行え、また判断することが出来るのである。
「白色電光の戦闘穴吹」軍曹の「背面突進」も、我々が考える時間の長さとは別次元の時間の流れの中で起こっていることであり、穴吹軍曹にとっては射撃し待避するには十分過ぎる時間だったのである。時間の流れる速さは時と場合によって異なることは「体験として、そういうこともある」とわかってもそれを科学的に証明し、そのメカニズムを解説することができるのだろうか?
水の世界も同じようなことが言える。水は変わるのである。科学的に100%解明されなくとも、体験として、それが言える。この世の中、科学でわかっていることなどほとんどないのだから、科学的に説明できないからといって「起こった事実」を否定することは誤りであり、それはまた、新たな科学的発見を阻害するものである。
水について、白紙の心をもって見てみると、きっと新しい何かが見えてくると私は思います。
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