提橋和男の新管理人のつぶやき
(2006/7/4)

提橋和男の新☆管理人のつぶやき 889

士道不覚悟(4)

生命について



局中法度書

市中巡察

山南敬助が悲劇(?)の主人公と思われる方が多いかもしれないが、山南の死から、わずか3年後には、近藤勇も土方歳三も沖田総司も、そして山崎烝も、この世の人ではなくなっている。
46億年の地球の時間を1メートルの横軸で示して、人の一生を書き入れたら、80年の人生も、20年の人生も、ひとつの、小さな点でしか表せない。人生は瞬く間の一瞬に過ぎ去っていく。
人の命の価値は、その生きた長さよりも、いかに生きたかに、その価値があるように思う。

山崎烝は鳥羽伏見の合戦の傷がもとで、江戸に向かう幕府軍艦富士山丸の船上で息をひきとった。葬儀は、洋式海軍の慣習による水葬であった。海軍指揮官が剣を抜いて号令をかけた。だだだだ、だあ〜ん、と弔銃が紀淡海峡にひびきわたり、監察・副長助勤山崎烝の遺骸は舷側から海にすべりこんだ。その間、喇叭が吹奏された。慶応4年正月12日であったという。

近藤勇は慶応4年4月3日、流山の官軍陣地にみずから行き、両刀を渡している。そして同25日板橋の刑場で斬首された。武士の刑は切腹が作法である。斬首は罪人に対する処置であって、薩長の近藤勇や新選組に対する恨みがいかに大きかったかという証であろう。

沖田総司は結核のため江戸千駄ヶ谷の植木屋の納屋で療養している。大阪から江戸へもどる富士山丸の中で、素人の近藤でさえ(総司は永くあるまい)と歳三にいった。そのくせ富士山丸の中では冗談ばかりをいって笑い、「笑うとあとで咳が出るのでこまる」と自分でもてあましていた。
江戸に帰ってから近藤は、妻のおつねに−あんなに生死というものに悟りきったやつもめずらしい。といったが天性だったとおもわれる。総司はこのとき25歳である。総司が起居していたのは千駄ヶ谷池橋尻の植木屋平五郎の納屋、といっても厳密には納屋ではなく、改造して畳建具なども入っていた。姉のお光が身の回りの世話に訪れていたが、沖田林太郎ら庄内藩の残留組が出羽庄内へ引き上げることになった。4月3日その日が訪れ姉との最後の別れとなった。それから1月あまりたった慶応4年5月30日、看取られることもなくこの納屋のなかで、死んだ。

墓は、沖田家の菩提時である麻布桜田町浄土宗専称寺にある。戒名は、賢光院仁誉明道居士。永代供養料金五両−後に江戸に戻ったお光と林太郎がおさめたものである。
のちに墓石が朽ちたため、昭和13年、お光の孫沖田要氏の手で建てかえられ、おなじく永代祠堂金二百円。当時としては大金である。お光の沖田家の現在の当主は沖田勝芳氏。そこに総司のみじかい生涯を文章にしたものが遺こされている。たれが書いたものか。

沖田総司房良(かねよし)、幼にして天然理心流近藤周助の門に入り剣を学ぶ。異色あり。十有二歳、奥州白河阿部藩指南番と剣を闘はせ、勝を制す。斯名(このな)、藩中に籍々(せき)たり。
総司、幼名宗次郎春政、後に房良とあらたむ。文久3年新選組の成るや、年僅かに20歳にして新選組副長助勤筆頭。一番隊組長となる。大いに活躍するところあり。然りといえども天籍、寿を以てせず。惜しいかな、慶応4年戌辰5月30日、病歿す。(原文は漢文)

=司馬遼太郎「燃えよ剣」より=

土方歳三「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも 魂は東の君や守らむ」


箱館湾大海戦。明治2年4月9日新政府軍艦「甲鉄」


幡龍

回天

甲鉄

開陽

明治2年、春の訪れとともに新政府軍は箱館征討に乗り出した。蝦夷の厳しさを避けていたのだ。3月末には、青森に1万5千の兵が終結していた。
4月9日、新政府軍は甲鉄はじめ七隻の艦隊で江差を強襲。艦砲射撃を加え、陸兵を乙部の浜に上陸させた。松前城は旧幕臣の人見勝太郎が5百の兵で守っていたが、19日に至って陥落させた。兵力を増強させながら進撃してくる新政府軍を、各地で箱館軍は寡兵ながらよく防いだ。伊庭八郎、土方歳三らは陣頭に立って、鬼神の働きをする。わけても土方は、まるで死を求めるかのようにして危地に飛び込んで行った。
日を追って兵力が増えてくる新政府軍に対して、箱館軍は士官、兵ともに損耗が激しく、疲労が目立ってきた。各方面で圧迫され、じりじりと後退、5月に入ると箱館は新政府軍の重囲下に入った。
この頃には、総裁榎本は和議を考え始めていた。かれはもともと新政府に反旗を翻すという意図はなく、旧幕臣たちのために新天地を拓くことが根本の目的だった。
しかし、土方は違う。(自分が近藤と死を供にしなかったのは、ひとえに徳川家の冤罪を雪(すす)ぐためである。もし降伏して宥(ゆる)されたら、地下の近藤に合わせる顔がない)と思っている。頑として徹底抗戦を主張した。

ある夕方、土方は市村鉄之助という若い隊士を自室に呼んだ。わずか16歳にして京都で入隊した市村は、これまで忠実無比に働いてきた若者である。
土方は市村に自分の写真と遺品を託し、日野宿の佐藤彦五郎に届けるよう命じた。
折しも箱館沖に停泊中の外国船に乗り込んで横浜まで行くよう指示、50両の費用を手渡した。土方は若い命を助けたかったのだ。
市村は、この命令を拒んだ。入隊以来、初めてかれは任務を拒否したのである。
土方は「わが命令に従わざれば、この場で討ち果たすぞ」と脅した。実際に太刀を引き寄せたので、市村は涙ながらに応諾した。かれは7月中旬、彦五郎宅にたどり着き遺品を送り届けている。3年ほど同家の食客となったのち、故郷の大垣へ帰った。西南戦争で西郷軍に属して戦い、戦死したと伝えられる。

5月3日、新政府海軍の6隻が箱館港に来襲、回天、蟠龍は陸地砲台と呼応してこれを撃退した。4日後また襲い来たり、今度は砲台の射程外から砲撃してきた。甲鉄の巨弾が回天に命中、外輪の軸を打ち砕かれて回天は航行不能となった。千代田艦は4月末に港外で座礁損壊しており、箱館艦隊はほとんど戦闘能力を失ってしまった。

新政府軍は一気に勝負を決するべく、参謀として黒田清隆が就任し、総軍の指揮をとることとなった。
5月11日、黒田は箱館の総攻撃を命令。新政府軍は各所から市内に突入、市街戦となった。
新選組は弁天台場を守っていた。箱館山を占領した新政府軍は、勢いに乗って台場を攻撃してきた。200余人の守備兵は頑強に抵抗し、激戦となる。新選組の長島五郎作、津田丑五郎、栗原仙之助、乙部剛之進などが、次々と戦死した。
五稜郭で戦況を聞いた土方は、孤立した弁天台場の兵を救出しようと決意した。馬にまたがり、100人の兵を率いて五稜郭を出陣する。箱館の入口に当たる一本木関門で、新政府軍部隊と交戦、敗走させた。関門の柵を通り抜け、土方は先頭に立って、馬を走らせた。異国橋(栄国橋)近くまできたとき、一発の銃弾が黒ラシャの軍服を貫いた。どうと落馬した土方を、隊士の沢忠助が扶(たす)け起こしたが、もう絶命していた。土方このとき35歳。激動の幕末を、一直線に走り抜けた生涯であった。

日野に届いた歳三戦死の悲報に、時世の句が添えられていた。

早き瀬に  力足りぬか  下り鮎(土方歳三)
たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも  魂は東の君や守らむ(土方歳三)

=立石 優「新選組」がゆく(ワニ文庫)=

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