提橋和男の新管理人のつぶやき
(2006/4/4)

提橋和男の新☆管理人のつぶやき 851-3 

高校野球物語(3)

■八重山商工物語

やれば出来る、島に元気〈八重山商工物語:上〉
                    =asahi.com。2006年03月30日=


雨のためグランドが使えず、校舎で下半身強化の練習。袖口には「臥薪嘗胆」の文字。(1月12日

 雨がやんだ。青空に花火が打ち鳴らされた。停泊中の船から祝福の汽笛が鳴り響く。選抜高校野球の代表が発表された1月31日、八重山商工高が石垣島から初の甲子園出場を決めて人口約4万7000の島は沸き立った。

 その夜、高木健(62)の友人が経営する石垣市の繁華街にある喫茶店では、泡盛のグラスを片手に、島の人たちが応援態勢の話に花を咲かせた。

 高木は八重山商工高を遠征費の援助などで支えてきた「夢実現甲子園の会」会長。「球場まではやっぱりチャーター機か」「アルプス席では指笛と三線(さんしん)100丁(ちょう)で応援しよう」。話は深夜まで続いた。

 高木とともに活動してきた平得修(53)は、顔を赤らめて言った。「子どもたちが島に明かりをともし、大人を元気づけてくれた。次は僕らの番です」

 「夢実現甲子園の会」は資金集めの一環で、出場を記念した応援歌をつくり、CDの販売を始めた。選手たちの遠征費集めが着々と進む。

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 高校が三つしかない石垣島にとって、甲子園は遠い存在だった。最も近づいたのは88年夏、沖縄大会決勝まで進んだ八重山高。この時は沖縄水産高に0―8で敗れた。あと1勝ではあったが、離島勢には高い壁だった。

 「口では甲子園と言うけれど、離島からは無理だと、心の中ではほとんどの人が思っていた」

 高木はそう振り返る。

 だから、甲子園を目指す選手は島を出た。

 野球で上を目指す中学生は、沖縄本島にある強豪校に進んだ。「人材流出に歯止めをかけなくては」。大浜長照石垣市長の命を受けて動いたのが02年当時、市職員の高木だった。島から甲子園に出場することで、島民が誇りを持てるようにするのが狙いだった。

 高木は監督の人選を進めた。候補者は身近にいた。少年野球で全国大会優勝、中学硬式野球では世界3位の実績を残した伊志嶺吉盛(52)だ。「野球に情熱を持った彼なら島の歴史を変えられるかもしれない」

 伊志嶺は03年、八重山商工高の野球部に招かれた。04年、小学3年生から教えてきた選手たちが高校に進学するとき、ほとんどの選手が島に残って監督のもとで野球を続けた。

 八重山商工高は本州などへ遠征を繰り返した。対外試合を増やし、実戦経験が少ない離島の弱点を克服した。

 島は活気づいた。

 野球好きの子どもたちがざわめいた。選抜出場を喜ぶ八重山商工高の選手たちをグラウンドで見つめた少年野球チーム・八島マリンズ主将の又吉智生(八島小5年)は言った。「島からでも甲子園へ行けることが分かった。自分もここで頑張りたい」

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 行政も今回の甲子園出場を歓迎している。

 市長の大浜は話す。「昔から石垣島と本土とでは、運動能力や学力などで差があると言われてきた。こうして八重山商工が甲子園出場をつかみ、頑張れば小さな島でも目標を達成できる、ということを証明できた」

 バレーボールにも動きがある。八重山バレーボール協会が島内3高校の強化に乗り出している。島をバレーボールの合宿地としてアピールすることで対外試合を増やし、長期指導ができる島内の指導者を育てる取り組みを始める。同協会理事長の根原健(42)は「野球と同じように実戦を多くして、バレーボールに取り組む選手の環境を整えたい」。甲子園出場の効果が、ほかのスポーツにも刺激を与えている。


〈「島」からの主な甲子園〉戦後は53年、86年春と75年夏の洲本(兵庫・淡路島)、62年春と99年夏の久賀(山口・周防大島)、03年春は「21世紀枠」で隠岐(島根・隠岐島)が果たした。日本最南端の高校、石垣島の八重山商工は沖縄の離島勢では初出場。

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息子に伝える臥薪嘗胆 〈八重山商工物語:下〉
                   =2006年03月16日・asahi.com=

 まだ夜があけない真っ暗なグラウンド。石垣島にある八重山商工高の練習に一番乗りするのは、いつも監督の伊志嶺吉盛(52)だ。明かりをともし、バックネット横のパイプイスに腰掛け、練習メニューを考える。

 「勝つための根拠は練習だけ。今の生徒の多くには小学3年から野球を教えてきた。厳しい練習に耐えてきた子どもたちと選抜に出場できるのは本当にうれしい」

 伊志嶺は「小中高の一貫指導」で島の子たちを鍛えあげ、沖縄の離島勢として初の選抜大会出場を実現させた。

 石垣島出身の伊志嶺は選手としても甲子園を目指した。島内の八重山農林で1年生から二塁手として試合に出場。無類の練習好きは気の抜けた練習を許せず、「これで甲子園に行けるんですか」と先輩にくってかかった。返ってきた言葉は「お前、バカか」。当時は沖縄本島の強豪校とは力の差があり、離島の弱小チームにとって甲子園は夢のまた夢だった。

 沖縄大学に進み、準硬式野球部の俊足外野手として全国選手権連覇を遂げるが、165センチの身長がプロをあきらめさせた。「島に恩返しをしよう」。帰島後、子どもたちに野球を教え始めた。

 78年から83年まで八重山商工の監督に。だが、結果は出せなかった。

 「高校野球で大事なのは精神面です。それを教えないと勝てないことに気付いた」。指導の未熟さを痛感させられた。

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 94年、八島小学校の少年野球チーム「八島マリンズ」の監督に就いた。


祝賀会では,大人も子供も伝統舞踊のカチャーシを踊った=沖縄県石垣市で=

 ほかの監督らと一緒に島内8チームによるリーグを作った。島に最も足りない実戦経験を増やすのが目的だ。年間試合数は約30から3倍以上に増え、7年後には島の少年野球チームとして初めて全国制覇を成し遂げる。

 小学生の受け皿として中学硬式野球ポニーリーグも創設した。「八重山ポニーズ」の監督となりチームを世界3位に導いた。このときの教え子が選抜出場を決めた八重山商工の主力になる。

 午前中のゴミ収集業で生計をたて、午後のほとんどを野球に費やす。打ち込み過ぎたのが一因となって2度、離婚した。

 なぜ、そこまで野球指導にのめり込むのか。

 「長男の死が彼を変えた。島の子供たちのために何かをしようという気持ちが、より強くなった」

 40年来の友人である平得(ひらえ)修(53)は言う。

 95年、長男球太が20歳で他界した。音楽の道を目指していた息子に「プロデビューが先か、おれたちの甲子園が先か競争しよう」。そんなことを言い合ってきた。

 息子に対してもっと父親らしいことができたのではないかと、後悔があった。野球の教え子が、球太に代わる息子になった。

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 ポニーリーグの実績が評価されて、03年に八重山商工野球部への復帰を持ちかけられる。話し合いの席で、伊志嶺は言った。「お金はいらない。野球に携われるだけでいい」

 2度目の監督就任を機に大好きな酒をやめ、修行僧のように頭もそり込んだ。翌春、少年野球から指導を続けてきた教え子ら17人が入部。彼らに耐えることの大切さを伝えるために、練習着に「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」と縫い込んだ。

 選抜出場が決まった今年1月31日、伊志嶺はグラウンドに駆けつけた約400人の島民らとともに喜んだ。教え子たちに胴上げされると、こらえていた涙があふれ、誰よりも大声で人目をはばからず泣いた。

 「選手はよく頑張ってついてきてくれた。甲子園では1試合でも多く勝って島民を喜ばせたい」

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